ちょっといいお話 その1 観音になった侍 |
信濃国筑摩の温泉は、 昔からどんな病気にもよく効く薬湯だといわれてきた。 そのため、 近在の人はもとより遠くからもおおぜいの人々が集まってきた。 ある夜、この温泉の近くに住む信心深い男が不思議な夢を見た。 夢の中に観音が現れ、厳かな声で男に告げたのである。 「筑摩の湯はまことにありがたいお湯だと聞く。 わたしもかねがね一度は入りたいと思っていたのだ。 そこであしたの昼出かけることにする。」 男は驚いて尋ねた。 「それで、どんなお姿でおいでになるのですか」 観音はほほ笑んで答えた。 「うむ、年のころなら三十ばかり、黒いひげをのばして笠をかぶり、 皮を巻いた弓を手にして矢を背負い、葦毛の馬に乗って出かけよう」 次の朝になると、男は早速夢の話を近所にふれ回った。 「なんというありがたいお告げだ」 観音入湯のうわさはたちまち広がり、 あちらこちらからおおぜいの人々が集まってきた。 温泉の主人もこの話をすっかり信じ、 湯を新しく替えてしめ縄を張り巡らせた。 そして花を供え、 辺りをちりひとつないほどに掃き清めて観音を迎えることにした。 ひと目でも観音を拝もうとする人たちで、 早くも昼前には温泉の前は身動きもできないほどになった。 「それにしても長生きはするものだ。 観音さまの入浴されるお姿をこの目で見られるなんて・・・・」 「まったくだ。しかもお侍のお姿でおいでになると、 教えてもらえたのだから見逃しようもない」 人々は口々に言いながら観音の現れるのを今か今かと待っていた。 やがて約束の時間になった。 すると、なんと、 道の向こうから葦毛の馬に乗った侍が、 ゆっくりと近づいてくるではないか。 ひげをのばして笠をかぶり、 皮を巻いた弓を小わきに抱えて矢を背負った姿は、 まさに夢の中の話とぴったりであった。 「おう、観音さまだ。観音さまだ」 「ありがたや、ありがたや」 見物人たちはいっせいに地面にひれ伏し、 額を地にこすりつけて拝んだ。 驚いたのは侍である。 馬から降りて近くにいた人をつかまえ、大声で尋ねた。 「いったいどうしたのだ」 「ああ、ありがたや、もったいない」 尋ねられた人は頭の上で手を擦り合わせ、 そう繰り返すばかりでなにも教えてはくれない。 侍はやっとひとりの僧をつかまえ、頭を下げて頼んだ。 「お願いだ。わけを話してくれ」 僧も初めのうちはただ手を合わせるだけであったが、 侍があまりにもしつこく聞くので言った。 「あなたさまは観音さまでございましょう」 侍はとたんに笑いだしたが、すぐに真顔に戻って言った。 「わたしが観音さまだと・・。 とんでもない話だ。 わたしはご覧のとおりの狩り好きの侍だ。 先ごろ狩りに出て右の腕を痛め、 この温泉で治療するためにやって来たのだ。 それがどうして観音さまとまちがわれるのだ。 むしろ殺生を趣味にしているのだぞ」 「そう言われましても・・・・。 実は、昨夜不思議な夢を見た者がありまして・・・・」 僧はこの騒ぎのいきさつを詳しく話して聞かせた。 すると、侍はうなずいて言った。 「なるほど、よくわかった。」 そしてひれ伏している人たちに向かって大声で叫んだ。 「わたしは狩りで痛めた腕を治療するためにここにやって来たのだ。 断じて観音などではない」 しかし、人々がそんなことばで納得するわけがなかった。 侍がなにを言っても、人々は額を地に擦りつけて拝むばかりであった。 侍がいいわけをすればするほどますますありがたがり、 中には感極まって涙をこぼす者さえ出てきた。 --ええい、こうなればしかたがない。 侍は覚悟を決め、馬に飛び乗って重々しい声で言った。 「皆の者、わたしはいかにも観音である。 その信心を忘れずに心して暮らすがよい」 そして馬にむちを入れ、そのまま後ろも見ずに駆けていった。 侍は村外れまで来ると弓矢や刀をきっぱりと捨て、 その足で横川へ登った。そして出家を願い出た。 侍はそれ以来厳しい修行を積み、 後にりっぱな僧になったということである。 |